正文

16 心/心

日本近代文学名作鉴赏:汉、日 作者:谭晶华 著


16 心/こころ

夏目漱石

【作品梗概】

本作品由上“先生和我”、中“双亲和我”和下“先生和遗书”三部组成。

“我”是一个学生,暑假去镰仓时偶然在海边认识了先生。当时,先生和一个西方白人在一起,“我”出于好奇一直注视着他们。在以后几天的游泳中,“我”和先生有了交情。回到东京后,“我”去先生家造访,夫人告诉我,先生到杂司谷墓地去了,每个月的这一天,他有去墓地的习惯。以后,“我”常去先生家。从表面上看,先生夫妇的关系很好,他们一起看戏,听音乐会,有时还去箱根、日光旅行一周,我甚至以为他们俩的婚姻一定充满着不少浪漫的情趣。可是,先生却明确地告诉“我”:“恋爱‘是罪恶,你可得小心呀’。”“我”询问其意,先生反问道:“你知道我为什么每个月要到杂司谷朋友的墓地去吗?”有一次,“我”和夫人在一起时,她告诉我,先生现在变得越来越讨厌见人、讨厌开会,他既厌弃社会、厌弃他人,也厌弃自己的妻子。(上)

父亲生病,“我”回乡探亲,待父亲病好转后“我”回校撰写毕业论文。这时,先生劝我趁早分好家财,因为亲戚、兄弟再好,在某种情况下,顷刻之间也可能变成恶人。“我”毕业后回到家乡,父母亲喜出望外,准备请客,“我”却讨厌这些旧俗,正好这时传来了明治天皇驾崩的消息,请客也就因此作罢。“我”写信给先生请他帮忙找工作,就在“我”打算去东京时,父亲病危,同时,先生也打来让“我”速去东京的电报,“我”回电说明现在不能去的理由后,收到了先生寄来的一叠厚厚的遗书。“我”赶紧跳上了开往东京的列车,在三等车厢里从头至尾地读了先生的遗书。(中)

先生的父母早逝,由叔父照料生活。可是,当先生得知自己最信赖的叔父侵吞了父母的财产后,开始不相信除自己之外的所有人。他来到东京借住民宿,房东太太是一寡妇,有一位美貌的女儿,先生深深地爱上了她。为了帮助经济困难的朋友K,先生让他和自己住在一起。谁知K也爱上了房东小姐,并向她求爱,这使先生十分狼狈,他决定甩掉K,把小姐夺到手。先生成功了,听到先生和小姐订婚的消息,K自杀而亡。先生毕业后结了婚,但是K的幻影一直留在心里折磨着他,他感到自己的所作所为比叔父的行为有过之而无不及,开始厌弃这样的自己,这种罪恶的意识使先生日益孤独绝望,最后,他决定以自杀的方式来摆脱这一痛苦。(下)

【作品鉴赏】

中篇小说《心》1914年4月至8月连载于《朝日新闻》,十月,由岩波书店出版单行本,初版的版面、扉页以及书内装帧全都由作者自己设计。

作品的上部和中部通过一个敬慕先生的青年的观察进行叙述,而下部则是以遗书的形式由先生自述。作者门下曾经聚有不少出众的学生,小说中“我”这个青年和先生的关系使人不难想到许多踏着鲜花下的小道集于作者门下的年轻人与作者的关系,这是本作品充满朝气,长期受到青年读者喜爱,并使他们深受启迪的一个重要原因。从作品的构思上看,上、中两部不仅起着引出下部主题的作用,而且还可以成为反映师生关系和亲子关系的独立短篇,表现了受到长一辈厚爱和教益的新一代人的面貌。可以说,先生是明治时代知识分子的代表,而“我”则是大正时代新一代青年知识分子的代表。

《心》详细地描写了主人公先生为了赎罪而自寻死路的过程。主人公先生所信赖的叔父夺走了他家的财产,使先生不再相信任何人,这时,支撑着主人公心灵的是自己不与周围不良风气同流合污的纯洁和正义。然而,到了关键时刻,自己竟然也会变得像自己不信任的人一样卑劣、一样丑恶。一旦自己不再相信自己的时候,道义和生活就无法统一,于是,主人公滋长了异常孤独和绝望的情感。正因为主人公明白自己卑劣的行为是一种罪恶,所以他才选择了自杀赎罪的道路,他要否定利己主义,要毁灭利己的自身,这一点只有通过死才能实现。这里,充分体现了作者的伦理观。作者在此之前发表的《行人》一作中塑造了一个“自己永远正确,他人总是不对”的人物,而在《心》里却写了一个对人生不抱希望,敢于用锐利的目光去解剖自己、剖析明治时代知识分子深层心理的先生,从而体现了作者晚年创作中的一大特点。

选文[1]

「…そのぶんわたくしさいたいしておのれかざはまるでなかったのです。もしわたくしぼうゆうたいするとおなじようなぜんりょうこころで、さいまえざんことならべたなら、さいうれなみだをこぼしてもわたくしつみゆるしてくれたにちがいないのです。それをあえてしないわたくしがいさんがあるはずはありません。わたくしはたださいおくあんこくいってんいんするにしのびなかったからけなかったのです。じゅんぱくなものにひとしずくインでもようしゃなくけるのは、わたくしにとってたいへんつうだったのだ[2]かいしゃくしてください。

いちねんってもKをわすれることのできなかったわたくしこころつねあんでした。わたくしはこのあんちくするためにしょもつおぼれようとつとめました。わたくしもうれついきおいをもってべんきょうはじめたのです。そうしてそのけっなかおおやけにするるのをちました。けれどももくてきこしらえて、にそのもくてきたっせられるつのはうそですからかいです。わたくしはどうしてもしょもつのなかにこころうずめていられなくなりました。わたくしはまたうでみをしてなかながめだしたのです。

(略)あざむかれたとうわたくしは、ひとたのみにならないことをつくづくとかんじたにはそうありませんが、ひとわるるだけあって、ぶんはまだたしかながしていました。けんはどうあろうともこのおれりっにんげんだというしんねんがどこかにあったのです。それがKのためにごとかいされてしまって、ぶんもあのおなにんげんだとしきしたときわたくしきゅうにふらふらしました。ひとあいかしたわたくしは、ぶんにもあいかしてうごけなくなったのです。


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